空白の2ヶ月のあいだに、ドーナツ屋のレジっ子から、ガーデナーになった。それから、毎日植物のことを勉強している。

 

 インプット脳になってて、常に本を読んでいたり。環境だけじゃなくて、体も心も変化するのが春なのかなと思います。

 

 2ヶ月も無職だったので、働いても働いてもお金が入ってこない一番辛い時期なのですが、来月は、お給料がいくらかはいるので、夢があって、一番幸せなひと時かもしれません。

 

 うーん、、例えば、

紙袋に入れてもらうくらい本買ったり、

夏のワンピースを洋服店でみたり、

お散歩の途中でカフェに行く余裕ができたり、

ノートを新調したり

香水を選びにいったり

 

大金が手に入っても、旅行に費やすより、日常生活を楽しくするための、こまごまとしたことに使ってしまうと思います。

 

でも、旅はいいなと思います。

その場でしか感じられない、空気とか、太陽がいつもより熱を帯びた感じとか。

うっとりと、めまいのする匂いがあります。

 

暮らしに満足したら、逆に満足できなくなったら、旅をしてみたいと思います。

 

四月から、どんな一年になるんだろう。

今は忙しいけど、少し、手持ち無沙汰な時でもあります。

 

季節

 

金木犀の匂いがすると、秋だとか。

粕汁がのみたくなったら、もう冬だとか。

 

単調な日々の中で、ぷつり。

と何かが終わって、何かが始まるのは、だいたい人間が決めたこと。

 

どこからが秋で、冬なのか。境界線なんてものはなくて、ただ穏やかに自然は移ろいでいく。

 

ゆるやかな変化は、私たちもそう。

大人と子供の線引きなんてほんとは無いんだと思う。

 

わたしも、穏やかに移ろいでゆく時間でありたい。

秋桜

 

 

11月のはじめ。

私たちはコスモス畑に行った。
 
気持ちのいい小春日和だった。数えきれないくらいの花にかこまれていると、私たちはとても幸福で、そしてちっぽけな存在だった。
 
彼らは太陽をたくさんあびて、今を生きることに最大の喜びや快楽を味わっていた。そして、美しかった。
 
よくみると彼らの中に、まっちゃっちゃになった枯れた花もいた。
 
 
生きることを謳歌する花と短い生涯を終えようとしている花。彼らは表裏一体で、どちらも美しくて、そして危うかった。
 
私たちも彼らと同じく光をあび、風を感じ、ほほえんだ。
そこに時間という概念や、私たちを縛るものは無く、恐ろしく満ち足りた気持ちで、今ここを生きていてた。
 
とても美しくて、とても危うい。大きくて、ちっぽけな存在。
 
コスモス畑での秋は、束の間の幸福を私たちに与えてくださった。

いぬになりたい

だんだん寒くなってきた。

 

たしか、夏の積乱雲がほろほろになって、うろこ雲になった。

金木犀のあまい匂いがしたかと思ったら、落ち葉拾いのおじさんをみかけるようになった。

 

日の出の時間はゆっくりになるのに、眠る時間はおなじだから、目覚ましがなっても外がまだ暗くておかしな感覚になる。

 

ついこの間、1限の授業に間に合うバスを降りた時、吐く息が真っ白になって、もうこんな季節?と思ってびっくりしちゃった。

 

 

 

 

夏のフィルムカメラを現像したり、すだちのジュースを飲んだり、山で栗を拾ったり、コスモス畑に行ったり、ラフランスを少しかじったりしたわたしの秋はどこへいった?

 

 

秋は、夏の終わりがつけた傷の余韻を味わって、確かにくる冬への準備をする大事な季節。

 

コフレやクリスマスソングやおせちのびらをみて冬を感じるのはいやだ。

 

いつもと少し違うズレのようなものを季節の変化だと感じながら暮らして生きたい。

 

いぬは、人間よりよっぽど耳や鼻がきくから季節に敏感だと思う。いぬは数字を知らないけど、きっと彼らなりの時間軸が存在して、わたしにはそれが真似できないものだから、それがとてもとてもうらやましい。

 

わん!とないて、いぬになりたい。

もう夏のこと恋しい

 

もう夏のこと恋しい。

 

yogeeの新曲を、聴きながらベッドに座って、ブログを書いてる。

「過ぎ去った夏に想いをはせて、切ないメロディと深いリバーブ描く恋の思い出」

と、メッセージ付き。

 

 

どうして、夏はあんなにドキドキして特別な季節なんだろう。こっちが現実だっていってほしい。

 

もう夏のこと恋しくなって、

ぽろぽろ泣いてしまった。

 

素肌の太ももに、ぽたりと涙が落ちる。

 

涙からほんの一瞬体温の名残りを感じた。

夏の最後のあたたかさに似てる。

 

 

だんだん、朝が暗くて寒くなっきた。

 

夕方も少しずつ、あの気持ちいい風を感じられなくなってる。

 

コスモス畑に今年も行きそびれた。

 

 

 

それから

 

 

秋は時間を弄ぶための季節じゃない。

 

あれは幻想だった夏の思い出にいつまでもいつまでも取り憑かれている私は老婆。

 

 

生活を整えることを知り、足るを知った人間が作品を作った所で、それは手遊び。

 

 

夏が残していったものは

秋の虚無感

冬の絶望

春の死、だけだった。

 

来たる冬や春の暗闇を怖れて、気をそらすために、暇つぶしの手遊びしてはいけない。

前を向いていかなければいけない。

 

 

 

夏は戦の時代のように、汗をかき腹を空かし、大きなものに対峙した。

 

 

作品を作るとき、へろへろになりながらも必死に食らいついている姿。取り憑かれているようにみえるし、情事のようにもみえる。

 

核爆弾のような台風がきて、全てをかっさらうかのようにして夏が終わった。

 

 

秋は戦後青年のもつ虚無感に似ている。